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名古屋地方裁判所岡崎支部 平成6年(わ)161号 判決

主文

被告人を懲役一年一〇月に処する。

未決勾留日数中三七〇日を右刑に算入する。

押収してあるライター一個(平成六年押第二七号の一)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯等)

被告人は、中学卒業後、調理師見習いなどの仕事をしていたが、勤め先の売上金や同僚の所持金等を盗んだり、隣家に盗みに入るなどの非行を繰り返し、少年院に二度送致された。この間、被告人は、昭和五六年ころ、母親が兄とともに家を出てしまい、その際、父親とも離別したため、以後、身寄りもなく生活するようになつた。

被告人は、昭和六二年六月に窃盗罪により執行猶予付(保護観察付)懲役刑に処せられたが、その後も窃盗を繰り返して昭和六三年二月に実刑判決を受け、執行猶予を取り消された前刑と併せて服役し、さらに、平成二年四月に窃盗罪により、平成四年三月には常習累犯窃盗の罪により、いずれも実刑判決を受け、服役を重ねた。

被告人は、平成五年一〇月七日に岡崎医療刑務所を出所した後、間もなくパチンコをするなどして所持金を使い果たし、同日、手配師の紹介で住み込み就労したものの、やがて、その就労先はヤクザが経営しているのではないかとの不安に駆られ、同月一〇日昼ころ、同所から逃げ出した。その際、被告人は、かつて別の手配師から飯場を逃げ出したら乱暴されるという話を聞かされたことがあつたため、一旦逃げ出した以上は少しでも早く遠くへ逃げなければならないとの焦りを覚え、まず、付近に停めてあつた自転車を盗み、次いで、電車に乗つたりするお金を得ようとして、通行中の女性からバッグをひつたくつた。しかし、被告人は、その後、交番の前を通りかかつた際、自首をすればこれらの行為についての刑が軽くなると考え、しばらく遠くから交番の様子を眺めていたが、警察官が不在のようであつたため、やはり逃げようと思い直し、工務店の事務所に逃げ込んで現金を盗み、その後、鍵付きの自動車を見つけたことから、これを盗んで自ら運転してみたが、間もなく物損事故を起こし、これを乗り捨て、さらに、付近の中学校から自転車を盗み出したが、同校の生徒らに追い掛けられたため、これも乗り捨て、一時畑の中に身を隠した後、愛知県幡豆郡《番地略》所在の漁具倉庫に逃げ込んだ。

被告人は、右倉庫に逃げ込んだ後、刑務所には戻りたくないが、逃げ出した就労先の人に見つかつて乱暴されるのも嫌だなどと考えるうちに、音信不通となつている母親らのことを思い出し、寂しい気持ちになり、にわかに、自殺してしまおうとの思いが脳裏をよぎつた。そこで、被告人は、まず首吊り自殺をしようと考え、右倉庫内にあつた紐を天井付近の角材に結びつけてみたが、床に足が着いてしまつて首を吊ることができず、次いで、右倉庫内に多数のオイル缶が置かれているのを見て、服役中に知り合つた者が放火の罪で捕まつたと話していたことを思い出し、右倉庫内にオイルを撒いて火を放てば焼身自殺できるかも知れないと考えた。

(罪となるべき事実)

被告人は、前記犯行に至る経緯等記載のとおり自殺する方法を思案した末、建造物に火を放つて焼燬することを企て、平成五年一〇月一〇日午後五時一〇分ころ、愛知県幡豆郡《番地略》所在のA所有の漁具倉庫(コンクリート造スレート葺平屋建、床面積約五〇・九八五平方メートル)内において、同所備え付けのエンジンオイルを同所の床や風呂敷包みなどにまき散らしたうえ、所携のライター(平成六年押第二七号の一)で右風呂敷包みに点火して右倉庫に燃え移らせ、よつて、現に人の住居に使用せず、人の現在しない右倉庫を全焼させ、これ焼燬したが、その際、心神耗弱の状態にあつたものである。

(証拠の概目)《略》

(累犯前科)

被告人は、(1)昭和六二年六月二日名古屋地方裁判所で窃盗罪により懲役一年(四年間執行猶予、保護観察付、昭和六三年二月二九日右猶予取消し)に、(2)昭和六三年二月九日同裁判所で窃盗罪により懲役一年二月に各処せられ、右(2)につき平成元年二月一七日、右(1)につき平成二年六月一九日、それぞれその刑の執行を受け終わり、(3)右(2)の刑の執行を受け終わつた後で右(1)の刑についての仮出獄中に犯した窃盗罪により平成二年四月二七日同裁判所で懲役一年六月に処せられ、平成三年一二月一九日その刑の執行を受け終わり、(4)その後犯した常習累犯窃盗の罪により平成四年三月六日同裁判所で懲役一年八月に処せられ、平成五年一〇月六日その刑の執行を受け終わつたものであつて、右各事実は判決書謄本四通及び検察事務官作成の前科調書によつてこれを認める。

(法令の適用)

被告人の判示所為は平成七年法律第九一号(刑法の一部を改正する法律)附則二条一項本文により右法律による改正前の刑法一〇九条一項に該当するところ、前記の各前科があるので同法五九条、五六条一項、五七条により同法一四条の制限内で四犯の加重をし、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の軽減をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年一〇月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中三七〇日を右刑に算入し、押収してあるライター一個(平成六年押第二七号の一)は、判示非現住建造物放火の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条二項二号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(争点に対する判断)

本件犯行時の被告人の責任能力について、弁護人は心神耗弱の状態にあつた旨を主張し、他方、検察官は完全責任能力が認められる旨を主張しているので、この点について判断する。

一  まず、関係各証拠によれば、被告人は、本件犯行の当日である平成五年一〇月一〇日に緊急逮捕された後、翌一一日昼過ぎ嘔吐するなど身体の変調を来し、甲野市民病院に入院したところ、翌一二日未明、同病院内において、「俺はサイボークだ。」「あと一秒で俺は死ぬ。救急車を呼んでくれ。」等と騒ぎ、点滴の針を抜いたり、食器の蓋を投げつけたりして暴れ、同病院からの通報により警察官が駆けつけた後も、「はい、看護婦さん並んで。はい、お巡りさん並んで。」などと意味不明の言動を示し、同日、乙山病院(精神科)に転院したことが認められる。そして、被告人は、その後も、病院や留置場において、母親が被告人の名を呼んだりする幻聴を聞いたという(被告人の公判供述)。

二  これらの経緯を踏まえて、本件犯行時の被告人の責任能力につき疑義が生じたため、被告人に対する精神鑑定がなされたが捜査段階で行われた医師舟橋利彦による精神鑑定(同医師作成の鑑定書及び同医師の当公判廷における供述・以下「舟橋鑑定」という。)では、被告人は精神薄弱者(IQ六二・WAIS)であり、本件犯行に至る一連の流れの中で、精神的に混乱した状態にあつたものの、その間の行動には精神障害の症状は何ら認められず、本件犯行後の身柄拘束下で見られた異常な言動は特定の環境下でのみ発現する拘禁反応であり、本件犯行時には、是非善悪を弁別しうる能力とその判断に従つて行動する能力があつたとされている。

一方、公判段階における鑑定人医師難波益之は、被告人は知能が低く(IQ四〇・田中ビネー)、判断力不良であるうえ、性格的特徴として被暗示性・被影響性が高いため、錯覚に対して無批判に過剰な反応をしやすく、本件犯行後に見られた異常な言動も、夜道に提灯を見てお化けと思い込むという類の錯覚(感情性錯覚)に対し無批判に過剰反応をしたものであるとしたうえ、本件犯行は、不安や恐怖を処理できず逃げ場を失つて追い詰められた被告人が、幼稚な自傷的衝動行動に逃避したものであるとして、本件犯行時の被告人は、行為の理非善悪を弁別し、それに従つて行為する能力が著しく障害されていたという(同医師作成の鑑定書及び同医師の当公判廷における供述・以下「難波鑑定」という。)。

なお、てんかんや精神分裂症の可能性については、両鑑定とも一致してこれを否定している。

三  そこで、本件犯行に至る経緯をもとに両鑑定結果の当否を検討するに、被告人は、前判示のとおり、前刑の服役を終えて出所した当日、手配師の紹介で住み込み就労したが、僅か数日のうちに、その就労先はヤクザが経営しているのではないかと疑つて不安に駆られ、右就労先から逃げ出し、その後、少しでも早く遠くへ逃げなければならないとの焦りから次々に盗みを重ねた末、焼身自殺を企図して本件犯行に及んでいるところ、この間の被告人の行動については、被告人なりに一応の理由付けはなされているうえ、自殺の手段として放火を企てたという動機も、それ自体としては格別了解困難なものではない。

しかしながら、この間の被告人の行動を子細に検討してみると、就労先がヤクザだと思つた理由は、就労先の人が幾らか怖そうな人で「丙川一家」という看板があつたからという程度であつて、いささか現実感に乏しく、その後、逃げ出した就労先の人や盗んだ物の持ち主が直ちに被告人を追い掛けてくるような気がして、早く遠くへ逃げなければという焦りに駆り立てられたというのは、一層現実感に乏しいものである。そして、被告人は、この間、逃げるのに必要な電車賃を得ようとしてひつたくりなどを重ね、ある程度の金銭を得ながら、鉄道の駅を捜すなどの目的に適つた行動をとらず、場当たり的に盗みを重ねた後、かつて自動車教習所に通つたことがあるという程度で殆ど運転経験もないのに、自動車を運転して逃げようと考え、これを盗んで運転してみたが、その直後に事故を起こして同車を乗り捨て、ますます精神的に混乱し、結局、事態を収拾する糸口さえ見出せぬまま、僅か半日ほどの間に、衝動的に自殺を企図するに至つている。

この間の被告人の行動は、確かに、妄想や幻聴によつて支配・制限された行動とまではいえないけれども、難波鑑定が指摘するように、十分な現実吟味がなされぬままに追跡されているかのような錯覚にとらわれた被告人が、不安や恐怖をうまく処理できず、精神的に追い詰められ、衝動的に自傷行為に逃避したと理解できるものである。

もつとも、被告人は、検察官指摘のとおり、本件犯行前の行動について、盗んだ自転車に乗つて逃げる途中、いつまでも同じ自転車に乗つていては警察に捕まると考え、別の自転車を盗んで乗り換えた旨を供述し、また、工務店の事務所に盗みに入る際には、指紋が残らないようにするため、民家の庭先に干してあつた軍手を盗んではめた旨を供述するなど、被告人なりに事態を冷静に判断して合理的に行動していたことを窺わせる供述をしている。しかしながら、右の自転車を乗り換えた点は、前判示の経緯を全体として考察すれば、被告人の冷静さを示す事情というよりは、むしろ、就労先の者のみならず自転車の持ち主等からも追い掛けられているかのような不安に駆られ、それを免れようとした場当たり的な行動と考えられるし、事務所荒らしの際に指紋を残さないように軍手をはめたとの供述に至つては、客観的な裏付けもなく、本件犯行から二か月余りを経た後の供述であつて、被告人の事後的な作り話である可能性すら否定できない。また、被告人は、少年時から盗みを繰り返し、施設収容を重ねてきた経験から、自己の罪責を免れるための対処の仕方について一通りの心得を有していたと推察できるから、そのような被告人が、盗みの手口等の点で部分的に理に適つた行動を示したとしても、前述した難波鑑定の推論の妥当性をそれほど損なうものとはいえない。

四  なお、難波鑑定において、被告人の知能指数(IQ)はTK式(全訂版田研・田中ビネー知能検査)で四〇とされており、この検査結果は、同鑑定において重要な判断資料とされているところ(鑑定人難波益之の当公判廷における供述)、一方、舟橋鑑定では、被告人の知能指数はWAISで六二(言語性IQ六七、動作性IQ六三)とされており、かなりの相違が見られる(この点、右難波供述によると、通常はいずれの検査方法によつても近似した数値が得られるという。)。しかしながら、両者の検査結果は、いずれも精神科医又は心理療法士の立会いのもとで行われたものであるうえ、知能検査の数値には前後一〇程度の誤差があるとされている(右難波供述)ことに照らすと、いずれか一方の検査結果のみが不正確であつたということはできず、少なくとも、被告人が難波鑑定による数値ほどに知能低劣な者である可能性を一概に否定することはできない。この点、検察官は、岡崎医療刑務所で実施された被告人の知能検査の結果が新田中式でIQ六四であつたことと対比して、舟橋鑑定による数値がより正確である旨を主張するが、検査の手法や状況が明らかでない右検査結果を基に、いずれも専門家によつて慎重に実施された両鑑定の検査結果の当否を論ずることは適当でない。したがつて、難波鑑定の前提とする知能検査の結果には疑問があるとする検察官の主張は、採用できない。

五  以上によれば、本件犯行は、難波鑑定が指摘するように、知能低劣・判断力不良で被暗示性・被影響性の強い被告人が、一種の錯覚に陥つて精神的に混乱し、その行動制御が一層困難となるような状況下で引き起こしたものと理解するのが相当であり、すなわち、被告人は、本件犯行当時、放火をすることについての是非善悪は弁別しえても、その判断に従つて行動する能力が著しく減弱した状態にあつたというべきである。

よつて、当裁判所は、弁護人の主張に沿う難波鑑定の結論を採用し、本件犯行当時、被告人は心神耗弱の状態にあつたものと判断した。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、他人所有の非現住建造物に火を放ち、これを焼燬したという事案であるところ、その動機は、前判示のとおり焼身自殺を企てたことにあるものの、それは被害者とは全く無縁の事情であつて、酌量の余地に乏しく、右犯行の結果も、漁業を営む所有者が漁具等の保管場所として現に使用していた倉庫を全焼させ、総額約一二〇万円にも及ぶ財産的損害を与えたというのであつて、重大である。それにもかかわらず、被告人は、右被害者に対し何ら被害弁償をしていない。また、被告人は、累犯加重の対象となる前科が四件もあるうえ、前科の服役を終えて出所した後、わずか四日目にして本件犯行に及んだものである。これらの事情に照らすと、被告人の刑事責任は重いといわなければならない。

そうすると、被告人が本件犯行時に心神耗弱の状態にあつたこと、右倉庫が漁港の堤防沿いに位置するため、延焼等の危険を生じさせる可能性が高くはなかつたこと、被告人が本件による未決勾留を受ける中で、被告人なりの反省の態度を示していることなど、被告人に有利な事情を十分に斟酌しても、なお、被告人に対しては、主文掲記の実刑を科することが相当である。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 三関幸男 裁判官 神沢昌克 裁判官 筒井健夫)

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